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論文 38




 海底遺跡にかかわる学術調査


                               木村 政昭  特定非営利活動法人 海底遺跡研究会








 沖縄県の与那国と北谷(ちゃたん)沖の水深50m以浅の海底に巨石構造物が存在する。どちらも中心的な構造物
は、石壁に囲まれた巨大な城郭の跡の可能性がある。与那国のそれは今から3,000〜2,000年ほど前に、北谷沖の
それは今から2,000〜1,000年前頃に形成されたものと推定される。それらは、邪馬台国時代の城郭の可能性が出
てきた。


キーワード:潜水調査、北谷海底遺跡、与那国海底遺跡,邪馬台国




1.はじめに

 1992年以降東京大学海洋研究所ほか多くの協力を得て、沖縄の海底遺跡(図1)調査を行ってきた。調査の主体
は、通常の圧搾空気使用によるスクーバ潜水によるが、マルチナロービームを用いた三次元音波探査および水中ロ
ボットを用いた調査等が行われた。それらの成果を報告すると共に、海底遺跡とは何者なのかということを検証する。







2.沖縄の海底遺跡

 これまでは、与那国島と沖縄本島北谷沖で海底遺跡の調査研究を行い、それらの海底地形がヒトによって形成され
た証拠を提示してきた。クサビを使った矢穴の存在やハンマーや斧等の使用痕跡の確認が行われた。与那国の海底
遺跡については、矢穴の形態から金属器使用を示す証拠が出てきた(木村、2007)。当時は、鉄器が使用されていたと
推定される。遺物としては、アッズ等の石器、線刻石板そして擦痕のある石の彫刻品その他が出土している。

 与那国や沖縄本島の海底鍾乳洞内の鍾乳石や貝塚の貝と思われるサンプルの炭素年代測定結果は、海底遺跡形
成時にその付近が陸化していたことを支持する結果を示した(木村ほか、2007)。
  "与那国海底遺跡"内で得られた岩片に付着した赤色物質の分析結果(新城竜一、棚原靖、2007年私信)は、"鉛丹
"が塗料に使用されていた可能性を示した。また、遺跡の東側で発見された長径70cmほどの円石に牛らしき動物が
浮き彫りされ、表面に赤褐色の付着物が認められた。分析の結果、これは彫刻された後の地表での風化物と判断され
た(同、私信)。このように、海底遺跡がヒトにより陸上で造られたことを示す証拠が着実に蓄積されてきた。



3.北谷海底遺跡

 沖縄本島中部の北谷沖の海底遺跡については、シーバット(マルチナロービームによる音波探査)により得られた海
底の精確な三次元地形より、人工的な形態が明らかになった(図2-1)。それによると、沖縄本島陸上の中城グスク
(城)(図2-2)に似た城郭的なものであることが明らかとなった(図3)。








 城郭全体の平面形態は細長くて用途別に区画がされている点は、中城グスクのそれとよく似ている(区画内のアルフ
ァベットは、筆者が加筆)。

 北谷海底遺跡について見てみると、階段ピラミッド状の平坦面に、一見浚渫工事の跡のようにみえる縦の筋が多数
存在する。それは、地形に無関係なずれのない割れ目、すなわち地質用語で節理(ジョイント)だということが明らかに
なった。これまでのどんな調査でも、数千年前以降のサンゴ礁が、自然の状態でこのようにカンナで削ったように平坦
で、しかも無数のジョイントが海底に露出している光景は報告されていない。これは明らかに人工的に削剥されてでき
た地形面である。これはこれまでに知られたことのない最新期の地殻変動によって海底に沈んだという決定的な証拠
となる。

 城郭状地形内部の中央部に認められるこの階段ピラミッド状の構造物(図4-1)は、グスクで言うと舎殿に位置づけ
られ得る(図2)。形や大きさは、中国大陸で発見された4,000年ほど前の竜馬遺跡の基壇と良く似た形態をしている。
ここで、この海底遺跡が作られた年代について述べる。幸いなことに、削られた石は現在のサンゴ礁を形成している地
質学的にはごく新しい、完新世の"サンゴ石灰岩"のため、炭素14法により容易に年代が出る。







 北谷海底ピラミッド(舎殿、主祭殿?)の基盤岩を不整合で被覆している石灰岩の年代は、1,100±70年前(yr BP、
以下同じ)(較正歴年代でいうと610-736年前)のものとわかった(木村ほか、2007;以下同)。一方、海底ピラミッド基盤
の石灰岩から採取した5サンプルより、炭素年代2,775 から5,030 yr Bp(較正歴年代2,436から5,456 cal BP)の年
代が得られた。この舎殿は、2,400年前以降に造られた可能性がある。他方、ドルメン(後述)を支えている基盤の石
灰岩2サンプルが、3,389±19と3,844±20 yr BP (3,234から3,847 cal BP)と出た。ここは、3,200年前以降成形さ
れた可能性がある。

 したがって、ここの城郭は3,200年前以降に形成され、舎殿が2,400年前に形成された。そしてそれが610年前の
石灰岩に不整合的に被覆されているため、600年ほど前には水没していた可能性がある。一方、両者が同時期に形
成されたとするならば、どちらも2,400年前以降に形成されて610年前には水没していたと言うことになる。そのどちら
の説が正しいかは今後の調査に待たねばならない。

 いずれを採るにしても、北谷海底遺跡の3,200年前以降の形成はほぼ確実と思われる。すなわちこの城郭は、縄文
後期以降から弥生後期頃の形成と推定される。



4.海底のドルメン

 北谷沖の海底城郭の南部に、亀に見立てられる扁平な巨石が岩に立てかけてある(図2-1;4-2)。その高さ4-5mに
なり、これは巨大なドルメンに似ている。ドルメンとは中国大陸で、日本の縄文?弥生に相当する時代にみられるもの
で、王様の墓ともいわれる。そこで、これが本当に墓であるかどうかを検討してみた。その結果、ドルメン(?)の中に"
石棺墓"と思われるものを発見した。

 巨大な上石の下は平坦になっていた。比較的大きな扁平な石を取り除くと、かなり大きな石塊の列が認められた(図5
-1)。その石灰岩は人工的に整形されたような形態をしている。これらが石棺を形成していた可能性がある。そして、ダ
イバーが入る前に取り除いた表面にあった多数の石片(図5-2)は、扁平なことから石棺の蓋となっていたものと思わ
れる。図5-1の写真のダイバーの下には、白色サンゴ石の小片が敷かれていた。それらは今ハンマーで打ち砕いたよ
うなシャープな面や稜をもった新鮮なもので、現海面下で流れによって運ばれたものとは明らかに区別され、人によっ
て加工された可能性がある(木村、2007)。これらは非常に新鮮で、おそらく死者が葬られる時には生きていたようなサ
ンゴの可能性がある。








 以上の資料を総合すると、この巨大なドルメンは王墓として遜色ないものと思われる。ドルメン内に敷かれた小サン
ゴ石片はかなり新鮮にみえるもので、墓建設時に生きていたかそれに近いサンゴが砕かれて用いられた可能性があ
るとすると、そのサンゴ石片の年代が、その墓の人物(王)が葬られた年代を示す可能性がある。そのサンゴ石片2つ
の年代は、2,030±19 yr BP(1,544-1627 cal BP)と2,417±19 yr BP (2,012-2,095 cal BP)である(木村ほか、
2007)。この年代から、その王墓は、今から2,100?1,500年前頃のものと推定される。その時代に相当する王というと、
たとえば紀元後248年頃、すなわち1,700年ほど前の卑弥呼も候補に入る。




5.考察

 北谷の海底王墓と思われるものの年代が弥生時代後期となる。この頃のものとして知られた王城は、吉野ヶ里に復
元された日本最古といわれる環濠集落である(図6)。ここは、邪馬台国連合の一つの国に相当するものとされている。
これを沖縄の城郭と比較してみると、北谷沖のそれが長径900mほどで、吉野ヶ里のそれが1kmほどで、ほぼ同じよ
うな大きさである。そして環濠内が4つほどに分かれている様子は北谷海底城と似ている。





 そこで北谷海底遺跡と邪馬台国との関係について検討してみたい。邪馬台国の候補地は、これまで畿内説と九州説
が有力とされている。しかし、遺物にも地理的条件にもそれぞれ難点があり、解決していない。これに対して従来より、
素直に倭人伝を読むと沖縄の方に行ってしまうといわれ続けてきたことも周知の事実である。それに対して近年、邪馬
台国沖縄説が提示された木村(1972a,b)。

 そこで、石原(1989)ほかを参考にして『魏志』倭人伝に基づき、邪馬台国の位置を再検討した結果、倭国女王の都
するところ(邪馬台国)は沖縄にあって不都合はないという結果が得られた。その結果を図1に示した。その海底に、時
代を同じにする城郭と王墓と思われるものが出てきたことになる。







 邪馬台国と沖縄との関係については、意外に思われる方が多いと思われるが、以下の点を見てみると、検討するに
値するものと思われる。

 1) 邪馬台国の位置については、従来説に比して『魏志』倭人伝の記述に素直に従った。
 2) 遺物については、近年量的には劣るが質的には劣らぬ出土例がある。弥生時代の銅剣・後漢鏡の出土があり、
    鉄の出土については畿内を凌駕すると言われる。その上、大陸の影響が明らかなトウテツ文様の貝器・骨器は
    南西諸島に出土し、明刀銭をはじめとした大陸由来の貨幣の大量出土は本域に特徴的である。
 3) 倭人伝には、「棺はあるが郭(そとばこ)はなく」(石原,1989訳、以下同じ)との記載があり問題視されている。畿
    内の古墳には郭があるためである。卑弥呼の墓ではないかと言われていた西暦240年頃のホケの山古墳には
    「石囲い木郭」という郭があり、里塚古墳には石郭があり、記載に合わない。
    その点、沖縄の海底墓は、郭はない構造で、倭人伝の記載に合う。
 4) 倭人伝には、女王が亡くなった際に大きな怩ェ造られたとある。その径は100余歩とあり、径100mを超す墓域で
    あったようだ。これもよく議論されるところだが、北谷海底遺跡内ではその程度の大きさの怩るいは墓域があ
    った痕跡が認められる。
 5) 倭人伝には、牛・馬はいないとされているが、九州以北には居たため議論されている。
 6) 倭人伝には、「倭の地は温暖で、冬も夏も生野菜を食べる。みなはだし。」と記されている。弥生時代後期は現在
    より寒冷であったとされ、このような生活ができる地域はトカラ海峡以北には考えにくい。

 以上、従来説では説明が難しかった点も沖縄説では説明しやすい点があるように思われる。中でも6)の自然条件
は、見逃しがたい条件と思われる。気候変動曲線を見るまでもなく、卑弥呼の時代の寒冷化は汎地球的なもので、当
時の海面変動曲線もこれを支持している。ところが倭人伝では、冬でも皆はだしでいるとか冬も生野菜を食べると記し
ている。現在でもどうかと思われるのに、そのような生活は、九州以北では難しく思われる。それがなりたつのは、古来
から生物相の境界として存在する渡瀬線(トカラ海峡)以南の南西諸島のみではないだろうか。ヒトも生物である。

 以上の考察は、沖縄に弥生時代の王城があってもおかしくないと言うことを示唆している。ただしその全解明には、よ
り広くより深海に調査のメスを入れなければならないため、今後の潜水医学の発展に期待するところ大である。




6.まとめ

1.沖縄の与那国島と北谷の海底遺跡はおよそ3,000-1,000年前の城郭と推定される。

2.これらは陸上で形成され、地殻変動と海水準変動により水没した。

3. 北谷の海底遺跡は、およそ3,000-1,000年前の城郭と推定され、その王墓は 2,100-1,500 年前のものと推定され
  る。
4.沖縄の海底遺跡については、邪馬台国関連の構造物の可能性が示唆される。





謝辞

 海底遺跡や海底鍾乳洞の炭素年代測定に関しては、名古屋大学年代測定総合研究センターで行った。また、琉球
大学新城竜一氏、沖縄県工業技術センターの棚原靖氏らには、サンプルに付着した塗料や変色物の分析を行って頂
いた。また、新嵩喜八郎、和泉用八郎、玉城欣也、長田勇、広部俊明氏らには潜水調査と試・資料採取および画像解
析等で協力頂いた。紙面を以て謝意を表する。






引用文献
安里進 (1990);考古学からみた琉球史 上 -古琉球世界の形成-。ひるぎ社、190pp。
石原道博(1989)新訂 魏志倭人伝 他三篇-中国正史日本伝(1)。岩波書店、167 pp。
木村政昭(1992a)邪馬台国の位置に関する一考察ー海洋学的視点をベースとしてー。南島史学、(39)、21-43。
木村政昭(1992b)南海の邪馬台国 検証された"海上の道"。徳間書店、270 pp。
木村政昭、古川雅英、中村俊夫、上里里香、市川逸土(2007)沖縄県北谷沖の海底構造物の年代測定と与那国海底
遺跡年代の再検討。名古屋大学加速器質量分析計業績報告書(XVIII)、219-227。







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