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論文 17




 ワークショップ 「 安全潜水確立へ向けて 」  司会者寄稿


                                池田 知純  埼玉医科大学客員教授 ・ 日本潜水協会顧問







潜水における"安全"について

 
この度、「小田原セミナー」第7回潜水医学講座において、ワークショップ「安全潜水確立へ向けて」を司会する機会を
得たので、潜水における安全全般について概観する。



【潜水は安全か】

 潜水は基本的に空気のない冷たい水の中での活動であるので、相応の危険性を有する1)。完全に安全な潜水という
のはあり得ない。

 問題はその危険性が許容できる範囲内であるか否かである。そして、危険性の許容レベルはその時の社会全般の
あり方によって左右されるもので、絶対的な値というものはないが、同時代の他の社会活動と比較することによって、お
およその感触を得ることができる。

 港湾潜水等いわゆる職業潜水の労働災害について、事故の重症度を反映するとされる強度率を他の職種と比較し
てみると、潜水の強度率は全産業を平均したものの値よりも15倍以上高く、比較的危険とされる建設業全体に比較し
ても5倍前後の高値を示している2)。

活動形態が職業潜水とは大きく異なるレジャー潜水では、時間あたりの死亡人数を一般の車両搭乗者が搭乗中に死
亡した人数と比較した報告がある3)。仮定が多く限定され不十分な調査ではあるが、ダイバーの死亡頻度は自動車搭
乗者の50倍前後に昇っている。

 以上のことからすると、水の中という通常とは異なる危険な環境の中での活動とはいえ、我が国における現在の潜水
に伴う危険性はやはり許容レベルを超えているとみなすのが自然であろう。



【事故の要因】

 事故の要因は図に示すように、大きくハードウェア、ソフトウェア及びダイバーの三つに分けて考えることができる。も
ちろん三者の間には重複したり概念の次元が異なったりしている部分もあり、必ずしも明瞭に分けられる訳ではない
が、そのことに留意しつつ以下に補足していこう。

 ハードウェアの異常が事故の主因として考えられる例はたしかに存在するものの、レジャー潜水ではそれほど多くは
ない。大多数はソフトウェアとダイバー自身の問題である。また、一見ハードウェアの異常によって発生したとみなされ
る事例も、例えば定期点検をしっかりと実施していれば防ぐことが可能であった場合があるが、このような例ではソフト
ウェアの関与する割合も大きい。

 ソフトウェアが主因をしめる問題としては、大きくはCカード制度をはじめとする機器の販売も含めた制度上の問題か
ら個々のダイバー及びインストラクターの錬度の維持向上あるいは救急時の体制の整備等に至るまで多岐にわたる。
プライバシーを損なわない範囲での各種情報の開示、事故からの教訓の入手、教育の充実等もこれに含まれる。
ソフトウェアと重なることも多いダイバー自身の問題は事故の大きな部分を占め、一つのまとまった要因をなしている。
それらは、ダイバーの身体的精神的潜水適性、潜水の錬度ないし技量、運動能力ないし体力、個人の性向、危機対処
能力等、複数の角度から取り上げることが可能である。
 
 これらのことから言えることは、事故が様々な要因によって発生していることである。それらの要因を敢えて学術分野
ごとに当てはめてみると、工学、人間工学、社会学、心理学、体育学、医学、教育学、経営学、等々幅広い分野にまた
がる。
 
 とすると、ここに一つの問題が浮かび上がってくる。潜水における安全性の向上とはとりもなおさず事故の防止であ
り、そのためには事故の要因を正しく把握することが第一歩である。しかしながら、要因は上に記したように多岐にわ
たることから、要因の把握が常に適正に実施されているのか些か心許ないのが実情である。

 現に、潜水の安全性に関して多少なりともアカデミックなテースト(香り)のする公的な議論の場は潜水医学の分野に
ほぼ限定されているが、医学が主要因として直接関与するのはダイバー個人の潜水適性、しかもそのうちの身体適性
に限定される。

 一方、事故の様々な要因の中で身体適性が占める割合はごく一部に限られ、果たしてそれで潜水事故全般を正しく
捉えることが出来るのか否か心配である。潜水を総合的に捉え議論する場が望まれる所以である。



【対応】

 ダイバーの致死事故等は決して等閑視されているわけではなく、それなりに重大視され様々な提言や取り組みがなさ
れているが、事故は依然として続いている。ということは、事故を減らす具体的な特効薬はない、ということを示唆して
いる。しかしながら、有効な対策が全くない、というわけではない。

 その一つは、平凡ではあるが潜水の安全性あるいは危険性について発言発信し続けることだ。現に、潜水の安全性
ないし安全潜水、あるいは裏返して潜水の危険性という言葉がメディアや学術集会等多くの場で聞かれるようになり、
心なしか「潜水は安全である」ということが無条件でそれなりの場所で言挙げされることは以前ほどではなくなったようで
ある。
 
 もう一つは情報の開示と共有である。情報化社会の中で海上保安庁をはじめさまざまな組織や個人が取得した情報
が以前よりはるかに多く流通するようになっているが、それが末端にまで行き渡っているか否か若干疑問である。いく
ら情報が開示されても、それが関係する人々に共有され認識されなければ効果は期待できない。その意味で、ダイビ
ング雑誌等、商業メディアの果たす役割は大きいものがある。
 
 この情報の開示と共有はレジャー潜水において特に重要である。というのは、レジャー潜水ではレクレーショナルとい
う文字通り潜水のポジティブな面が強調され(英語ではレジャー潜水よりもレクレーショナル潜水という言葉を用いる)、
潜水という活動が本質的に孕む危険性にスポットライトが浴びせられることが少ないからだ。

 その結果、プロでも何でもない一般のダイバーがそれなりの安全性を確保しようとすればそれ相当のコストがかかる
という至極当然の理屈が忘れられてしまい、安全面への配慮に欠ける安価なダイビングツアーがはびこることにもなり
かねない。

 情報の開示と共有による危険性の幅広い認識は、このような状況を防ぐ意味で相応の役割があるといえるのではな
かろうか。悪貨(安全への配慮の少ない廉価な潜水)が良貨(安全への応分の配慮をした分、コストの高い潜水)を駆逐
するようなことがあってはならない。
 
 最後に、敷居を低くすることについて触れておきたい。先に、潜水は複数の分野からなる総合的な活動である、と述
べた。であれば、当然それぞれの分野の敷居を低くし総合的な視点を持って臨まなければ、言い換えれば自分の専門
とする分野以外にも相応の知識を持って取り組んでいかなければ、潜水を正しく把握し事故の防止に向けて実効のあ
る対応をとることが期待出来なくなる。

 その意味で、例えば今回のワークショップのような異分野の人々が参加し討論しあえる場が存在することはきわめて
有意義なことである。
 お互いにディスカッションを重ねることによって、医師が現場の実情をわきまえないで絵空事を述べたり、逆にダイバ
ーが医学的常識に反する自説を滔々と自慢するなどという愚を多少なりとも避けることが出来る。今後とも当セミナー
のような場が設けられることを切望する次第である。



【謝辞】

 ワークショップ「安全潜水確立へ向けて」を司会する機会を与えてくださった西村周氏に深謝するとともに、小田原セミ
ナーを続けておられる各位に敬意を表する。






参考文献

1.池田知純:潜水の世界−人はどこまで潜れるか.   東京;大修館書店.2002.

2.池田知純,望月徹:労働衛生から観た職業潜水の問題点:致死例に焦点を当てて.
                                  日本高気圧環境・潜水医学会雑誌.41:19-23,2006.

3.池田知純,芦田廣:レジャー潜水は安全か.      日本高気圧環境医学会雑誌.34:28,1999.







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