Medical Information Network for Divers Education and Research ワークショップ 「 身体と健康管理 ・ 精神的な問題点 」
ダイビングにおけるメンタルストレスとその克服
野澤 徹 DAN・JAPANトレーニング部 ・ 水中科学研究所
はじめに
ダイビングは、通常ヒトが生存できない環境下で、器材を使って、圧縮空気あるいは呼吸用混合ガスを利用して行わ
れる活動である。このため、環境に対する慣れと器材の使用法の習熟、また、呼吸ガスが高圧環境下で人体に及ぼす
影響などの知識が必要になる。
ダイビングにおけるトレーニングは、そのほとんどが器材の取り扱いと緊急時の対応を想定したものである。ところ
が、実際に緊急事態に陥った場合、メンタルコントロールができていなければ安全な環境=水面(そして陸上)へと自ら
を移動させるのは極めて困難になる。
嘗てのレジャーダイバーの多くは、スキンダイビング(いわゆる「息堪え潜水」「素潜り」)を行っていた者が多く、器材
の取り扱いや緊急時の対応トレーニングプログラムは、こうしたダイバーなら自然にメンタルコントロールも可能であっ
たように思われる。
しかし、近年、スキンダイビングに習熟していない者や水に対する慣れが不十分な者がダイバートレーニングを受け
る傾向が高くなっている。
ここでは、ダイビングを安全に行うためには、これまで以上にダイバーのメンタルコントロールを重視しなければなら
ないという視点から、レジャーでのダイビングで可能な実践的視点を提供し、この点での論議の深化の一助となること
を目的とする。
ダイビングという活動
ダイビングを安全に行うには、環境+器材+人間の三者が調和した形で動いていなければならない(図1参照)。環
境は、いわゆる水の状態で、例えば海況ならほぼ静穏な状態でなければダイビングには適していないし、水中の流れ
や視程(いわゆる透明度)などもこの範疇に入る。
環境が適切でなければ、ダイビングの安全は確保されないのは自明であろう。「器材」は、ダイビングが水中という特
殊環境で行われることから、生命を維持するのに必須のものである。
基本的な生命維持装置とは別に、環境に合った器材(例えば、夜間なら水中ライトなど)が必要になるし、また、器材
の不調はそれを使っているダイバーの生命に直接関係するから、器材の保守・点検なども必須になる。
最後に「人間」であるが、この環境を判断し器材をうまく使うのは人間であり、人間こそがダイビング活動の要になる。
図1で「人間」が逆三角形の下部にあるのは、環境と器材のバランスをとる必要があるのは人間であることを示してい
る。このバランスが崩れると、環境や器材は、それまでの「快適性を与えてくれるもの」から「危険を孕むもの」に転化し
かねないからである。
潜水事故の原因の多くは、さまざまに語られているが、現状では、一次的原因やそれから派生する二次的原因が明
確ではないと思われる。しかしながら、ダイビングを長く経験している現場のインストラクター等からは、多くの潜水事故
では、「何らかの原因からパニックを起こし、溺水に至る」ことが多いという印象が語られることが多い。
また、バディ潜水中にダイバー同士がお互いを見失って単独潜水になった場合に、死亡事故に至ることが多いことも
指摘されている1),2)。
「パニック」という場合に、この行動が明確に定義されていることは少なく、単に「慌てた」行動なども現場では「パニッ
ク」といわれることも多く、潜水事故におけるヒトの行動学に基づく原因分析はなされていない。
ダイビングをより安全なレジャー活動とするためには、厳密な事故分析が必要であり、そのためには潜水事故の「収
集・分析センター」が必要になるだろう3)。もちろん、ダイビング活動が、水中で行われることを考えると、こうした不安
感の増幅からくるパニック的状態でもダイバーの生命を脅かす原因となることは十分に考えられる。
ダイビングにおけるメンタルストレスとパニック
ダイビングは「異環境に入ること」と「器材を使わざるをえない」ことから、ダイバーにストレスを与える活動であるとい
える。
ストレスの定義は、セリエの学説でよく知られているが4)、多くのダイバーにとって、同じ刺激であっても個人によって
そのストレスが生体に与える影響は異なるのは明らかであろう。
このことから考えると、心理的なストレスをラザルスに従って、「人間と環境との間の特定な関係であり、その関係と
は、その人の原動力に負担をかけたり、資源を超えたり、幸福を脅かしたりすると評価される」5)ものと定義するのが
適当であろう。
ここで「環境」とは、図1の「環境」と「器材」を含むものと考えることができる。
このように定義すると、ダイバーがダイビング活動で受けるストレスにはいくつかの種類があると考えることができる。
それを挙げると:
1) 器材取り扱いでのストレス
2) 水中環境に対するストレス
3) スキル実行上のストレス
4) 仲間との関係におけるストレス
といったものである。
そして、ダイビングが、通常ヒトが生存できない環境で特殊な器材を使って行われることから、少なくとも上記のストレ
ス要因の1)から3)項を低減しなければダイビングの安全は確保されない。
すなわち、ダイビングという活動は、こうしたストレスを低減するように作られたトレーニングプログラムによって初めて
可能になるものだということができる。
ダイバーレベルになり経験が増すと、こうしたストレスは低減するが、それには個人差があり、日によっても違う。ま
た、インストラクターやガイドダイバーの場合には、上記の各種のストレスとは別に:
5) 引率するダイバーによるストレス
が加わる。
そして、インストラクターやガイドには、ダイバーの各種のストレスを低減することによって、快適なダイビング環境を
作り出すという役割が期待されている。
こうしたストレスが、その状況下にあるダイバーの能力を超えると、そのダイバーは不安感を感じ、さらには、ものすご
い恐怖感から自己コントロールを失い状況に対処できなくなる。
この状態が、パニックと呼ばれるものである。
パニックに襲われた時のヒトの反応は、一般に「闘争-逃走(fight or
fright)症候群」といわれている。
「火事場の馬鹿力」の例を引くまでもなく、ヒトには緊急時に対応するための生理的機能が備わっているが、これはあ
くまで陸上で生存するためのものであり、水中では「水面への突進」となって現れるだろう。
要するに、水中でのパニックは、ダイバーにとって致命的であることになる(図2参照)。
パニックに襲われたダイバーに、「リラックスせよ」といっても、それは不可能である。この場合に有効なのは、緊急事
態を想定したスキルトレーニングの繰り返しであろう。
パニック状態では、「止まって考える」のは無理であるので、自動化された行動が出現する可能性が高いからである。
メンタルストレスの克服
ダイビングにおけるストレスを克服するためには、スキルトレーニングや器材に関する知識とその取り扱いの習熟な
どさまざまな面があるが、ダイビング前、そしてダイビング中にいかにしてリラックスし不安感なくダイビングを行うかに
ついての方法についてのみ焦点をあてる。
メンタルストレスとその克服は、レジャーダイビングではこれまでほとんど語られてきていない分野で、不明の部分も
多いが、パニックを、それが発現する前に克服できれば、潜水事故はおそらく一定程度減少するのではないかと思わ
れる。
そのためには、ダイビング中の精神状態を少なくとも「不安感」のレベルに維持しておく必要がある。このレベルなら、
ダイバーはまだ自己コントロール力を有しているわけで、安全に水面に復帰することができるからである。
そのための方法として、ここでは「呼吸」に注目する。呼吸は、「中枢神経に支配された横紋筋の意識的なはたらきで
あるだけでなく、自律神経にも強く影響されて」いて、「呼吸をコントロールすることで、心情にある程度の影響を及ぼす
ことができる」6)からだ。
またこの時、吸気よりも呼気を長く続けることにより、副交感神経系を亢進させることができる。
ダイビングの初期、特に水に入る前と水に入った直後は、ダイビング器材を運搬することやウェットスーツで身を締め
付けられることなどから、呼吸が速くなって交感神経が活発になっている。
この状態はいわば、「興奮」状態であるために、水中という通常と異なる環境では、不安感を亢進しやすい状態であ
る。
この状態での「呼気を長くする」呼吸コントロールは、リラクゼーションに効果があり、ダイビング中もこうした呼吸法に
よってゆったりとした動きをするように心がければ、余裕を持ってダイビングを楽しむことができるだろう。
「呼」を中心とした呼吸は、腹式呼吸であり、この呼吸法によってα波が発生し、また、セレトニン分泌が盛んになり、
覚醒状態でのリラクゼーションに効果があることが分かっている7)。このことからも、水中リラクゼーションを高める呼吸
法がダイビングの安全に有効であることが示唆されよう。
呼吸法については、より過酷なダイビングといえる「フリーダイビング」と「テクニカルダイビング」でも言及されているこ
とは、注目してよいだろう8),9)。
まとめ
ダイビングのトレーニングでは緊急事態に対するスキルトレーニングが主体になってきた。これは、ダイビング活動の
環境や器材使用という観点から、当然のことである。
しかしながら、近年のようにそれまでウォーターマンシップの訓練がなされていないダイバーが増加していることを考
えると、スキルのトレーニングとともに、メンタルストレスにも焦点をおいたトレーニングを加えて、特に水に入る前、水
に入った直後に安定した精神状態になるような指導が必要になると思われる。
ダイバー一人一人が、自らの精神的状態を意識できれば、緊急事態に陥る前に水面に復帰することも容易になる。
このためには、腹式呼吸それも「呼気中心」の呼吸法を使って、副交感神経系の活動を亢進することによって、リラク
ゼーションを得るのが効果的であると思われる。
参考文献
1.山見:レジャーダイバーの実態から見た問題点と安全管理、日高医関東地方会誌,5(1),p60,2005.
2.山見、他:レジャーダイビングにおける問題点、日高・潜水医雑誌、41(1), pp13-17,2006.
3.財団法人 日本海洋レジャー安全・振興協会「スキューバダイビングの安全対策に関する調査研究 報告書」,p67,
2005,3.
4. Bachrach, A. J. Stress and performance in diving, pp2-3, Best
Publishing,1987.
5.ラザルス、フォルクマン(本明他訳)、ストレスの心理学、14-24, 実務教育出版,1991.
6.永田:呼吸の奥義、講談社(ブルーバックス)pp106-107,2000.
7.有田:呼吸−心理・哲学・東洋思想:キーワードはセロトニン、In,呼吸のバイオロジー、pp2-7,メディカル・サイエンス・
インターナショナル,2004.
8.Gurr, K. Technical Diving from the bottom up, pp17-21, Phoenix
Oceaneering Ltd., 2002.
9.Pelizzari, U. & Tovaglieri, S., Apnee; de l'initiation a
la performance, pp125-171, Editions Amphora,2005.
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