Medical Information Network for Divers Education and Research ダイビングの安全指針
山見 信夫 東京医科歯科大学大学院 准教授
はじめに
ダイビングの安全が叫ばれて久しいがこの10数年潜水事故は減少傾向にない。ダイビングは他のスポーツで類
見ないほど医学的研究に基づいたルールが定められている。事故と医療も密接に関わるがこれまで医学会でダイビン
グの安全基準(指針)について言及されたことがなかった。
2007年11月2、3日、第42回日本高気圧環境・潜水医学会学術集会(以下、学術集会)において山本五十年会長
(東海大学救命救急センター)の企画のもとワークショップ「ダイビングの安全基準」(座長:西村周(MINDER)、山見信
夫(東京医科歯科大学)、演者:村田清臣(静岡県ダイバーズ協議会)、慶松亮二(株式会社KDS)、田原浩一(TDI
Japan,
日本安全潜水教育協会)、三保仁(三保耳鼻咽喉科)、山崎博臣(山崎内科医院)、外川誠一郎(東京医科歯
科大学))が開催された。その際、話し合われた内容を紹介し今後策定が期待されるダイビングの安全指針について
私見を述べる。
ダイビングの安全指針作成の目的は潜水事故と潜水障害を減らすことにある。関係する項目は医学(身体的な問
題、精神的な問題、心理学的な問題)、技術(指導方法を含む)、教育(指導方法を含む)、器材(種類、性能)である。
指導団体や器材メーカーと関連する内容も少なくない。
ダイビングの安全指針は問題が生じる時期(ダイビング前・中・後)によって区分することが望ましい。指針は調査・
研究によって得られたエビデンスに基づくものであって、一般ダイバーが容易に理解でき実践できるものでなければな
らない。管理に関する事項はダイビング現場の実状に合う必要がある。
<< ダイビング前 >>
ダイビング前のセルフチェック
ダイビング現場から要望として多いのが潜水直前に行うダイバーの体調チェックである。ダイバーはダイビング前、器
材について一連のセーフティ−チェックを行うが、病気(死亡事故原因の20〜30%)のチェックについてはほとんど行
われていない。
初めてダイビングをする参加者はダイビングの適否について日本語版 RSTC
メディカルチェックでスクリーニングさ
れる1)。しかしダイビング当日の体調については公的なチェック票はなく、ショップや指導団体が自発的に作成している
質問票だけであった。
たとえば競技会参加前の健康診査スクリーニングによって心血管突然死の発生を大幅に低下できたとする報告2)や
国民体育大会の代表選手のうち検診を受けた者には大会中の突然死を認めていないなど、事前チェックの重要性を
示す報告も増えている。臨床検査を行わないセルフチェックの効果は未知であるがダイビング事故予防のひとつの手
段と成り得る可能性はある。表1はスポーツ大会で使用されている質問票3)をダイビング用にアレンジしたものである。
・上記セルフチェックに対する回答の1つにでも○が付いた場合はダイビングを避けて休養をとって
ください。
・上記の症状が3日以上続いている方は医師の診察を受けることをお勧めします。
耳抜き不良時のダイビング可否
ダイビングのインターバル(水面休息時間)中、体調が気になり次のダイビングを控えるかを判断しなければいけない
ことがある。頻度として多いのが耳抜き不良、疲れ、副鼻腔スクイズ、冷えである。この中でもっとも判断を求められる
機会が多いのが耳抜き不良についてである。耳抜きについては、ダイビング中、耳抜きがしづらかったがエキジット後
に耳の症状(閉塞感など)がなく、陸上でスムーズに耳抜き(バルサルバ法)できるようであれば次回のダイビングをトラ
イしてもよいと判断し、潜水してみて抜けがよくなければ中止するべきである。
外リンパ瘻の発症と予防
外リンパ瘻は中耳と内耳の間にある内耳窓という膜が破けて内耳のリンパ液が中耳に漏れ出てしてしまう障害であ
る。潜降中の無理な耳抜きによって発症することが多い。潜降時、耳が抜けづらくダイビング後に耳閉塞感を度々自覚
するようなダイバーに起こる頻度が高い。耳抜きができにくいダイバーはスムーズに抜けるよう治療して潜水するべき
である。エキジット後、耳の閉塞感や耳に水が入ったような感じが続くときはそれらの症状が消失するまで潜水を中止
したほうがよい。
気管支喘息のダイビング適否
日本語版 RSTC
のメディカルチェックで「ダイビングは危険(ダイビング不可)」と判断される疾患として多いのが気管
支喘息と自然気胸である。自然気胸については日本語版 RSTC
にわかりやすい基準があるため問題になることは少
ないが、気管支喘息の適否基準は複雑であるため判断に迷うとの意見が多かった。しかし、最近ピークフローキット
(図1、2)による気道閉塞(収縮)チェックが有用といわれ、その判定基準も単純化されつつある。気道閉塞は日内変動
があるため(一般に閉塞は朝方にひどく夕方は軽い)朝夕を含めた1日2回以上の測定が望ましく、ダイビングをする
前の少なくとも1〜2週間、薬を使用しなくても常に正常である(ピークフロー値が常に予測値の80%以上に保たれて
いる)ことが望ましい。気管支喘息の症状(咳、息切れ、ヒューヒューという呼吸音)がまったくないこと、運動によって誘
発されないこと(運動誘発試験が陰性であること)は前提である。気管支拡張剤の吸入で1秒量が12%以上上昇しな
いこともひとつの目安とされる。
中高齢ダイバーの事故予防
中高齢(40歳以上)のインストラクターや経験豊富なダイバーの事故も少なくない。ダイビングが直接影響した事故で
はなく生活習慣病などの基礎疾患(持病)があったためにダイビング中、致命的な病気を招いたというケースもある。水
中で意識障害を起こすと致命的であるが、偶然休憩中の発症であったために一命を取り留めたという事例(基礎疾患
に糖尿病や肥満があったダイバーが陸上での休憩中に脳出血やくも膜下出血を発症し救命された例)もある。
中高齢者に死亡事故が多い理由は、体力が低下していること、疾病保有率が高いことである。状況としてはトラブル
(潮流など)を回避するための体力がなくパニックを起こした、または水中で発作的な病気を起こしたなどである。ダイ
ビング前には治療中の病気や使用中の薬をダイバーから聴取しておく必要がある。特に中高齢ダイバーでは重要であ
る。
プロダイバーの健康診断
インストラクターの水中トラブルは引率する他のダイバーを巻き込む可能性が高いため、身体適正の判断は慎重に
するべきという考え方がある。我が国には高気圧作業安全衛生規則には職業ダイバー等(インストラクターやガイドも
含む)に対する特殊健康診断および潜水禁止疾病が規定されている(表2)。これらの法規があることさえ知らないイン
ストラクターもいるためプロダイバーのための健康指針も必要かもしれない。
減圧症リスクファクターの周知
減圧症のリスクファクターは、可能性のあるもの(疑わしいもの)も含めると数10項目に及ぶ(表3)。ダイブコンピュ
ーターが示す、深度、時間、浮上スピードを守り安全停止を3分すれば減圧症は起こらないと思っているダイバーは少
なくない。10本未満で減圧症に罹患するダイバーもいることからリスクファクターについては初期講習で教えておくべき
であろう。
<< ダイビング中 >>
浮上スピードと安全停止
浮上スピードの基準は各指導団体間で異なるため統一されることが望ましい。安全停止については、水深3〜5mで
3分間停止することが常識になっているが、ディープストップや、潜水深度と時間に応じて安全停止時間を延長すること
についての指針はない。今後、安全停止についてはより具体的な指針があることが望ましいと考える。
ダイブコンピュータの使い方・考え方
ダイブコンピュータの減圧停止指示がなければ減圧症は発症しないと思ってるダイバーは少なくない。ダイブコンピュ
ータが示す数値の根本的な意味が理解されていないために誤解が生じているのであろう。ダイブコンピュータの使い
方・考え方についても指針が必要であろう。
パニック予防
ダイバーの運動強度(体力的な余力)は、ダイバーが吐く呼気(水中での泡)を観察することである程度知ることがで
きる。呼気は運動負荷以外にダイバーの緊張も反映する。途切れなくレギュレータから泡が出てくるときは労作による
ものだけでなく不安のため呼吸が浅く早くなっているのかもしれない。
パニックの前ぶれに過換気症候群がある。不安、緊張によって水中で過換気が誘発されパニックを起こしそうになっ
たダイバーは少なくない。過換気症候群は、潜水深度が深く流れに逆らって泳いだり一緒に潜水しているグループにつ
いていけなくなりそうなときに発症することが多い。
パニックの発生は、性格(心配性かなど)、環境の適応力、運動能力などとも関係するが、「ここちよい無理のない状
況」で潜水していれば起こすことはまずない。パニックの予防でもっとも大切なのは「労作的にも心理的にも水中で常に
余裕を持った状態でいること」である(学術集会にて慶松先生が関連事項を報告)。
表4に各年齢における心拍数と運動強度、自覚的強度との関係を示した。ダイビング中はパニックを予防するために
「やや楽である」または「楽である」という状態で過ごすことが勧められる。ただし、水中運動(レギュレーターを付けてフ
ィンキックする場合)は陸上の運動(自転車エルゴメーターなど)より自覚的強度(労作度)が強い。水中の自覚的強度
は、水中心拍数を1.1〜1.2倍した値くらいの強度に匹敵する。
水中・水面での応急手当て
水中で意識障害ダイバーを浮上させると肺の気圧外傷を起こすことがある。特に痙攣(全身性強直)しているダイバー
では、発作が治まってから浮上させるべきであろう。
我が国では一般人が心肺蘇生法を行う際、酸素を用いることが許されていないが、現実には酸素を使用したほうが蘇
生率が上がることは容易に予想できる。
潜水死亡事故対策
海上保安庁が取り扱った死亡事故では、単独潜水またはバディとはぐれた状況で死亡に至った例が多い(表5)。逆
にトラブルが起こっていても、インストラクターやバディが近くにいてサポートされた事例では救命されている。インストラ
クター引率中の事故が多いことが我が国の潜水事故のひとつの特徴とされている。潜水中のバディまたはインストラク
ターとの距離についても具体的な指針が必要であろう。
<< ダイビング後 >>
減圧症が疑われるダイバーへの対応
自己の経験を基にしたダイバーへの助言が減圧症の治療の遅れにつながったという症例は少なくない。ダイバーが
インストラクターに減圧症らしき症状を告げたとき、これまで同じようなダイビングをしてきたがこれまで一度も減圧症を
発症したことがないことから「減圧症は考えられない」と言い切ってしまい、その後、減圧症の後遺症を残しインストラク
ターとの間でトラブルになった例もある。
減圧症(疑)発生時の対処行動と問い合わせ先を地域ごとに明確にしておくことが必要と考える。DAN
ホットラインへ
の相談は減圧症については重症例に限られるべきで、関節痛や手足のしびれ感だけの(膀胱直腸障害を随伴しない)
症状であれば直接高気圧酸素治療装置のある病院へ問い合わせることを勧める。またDDNet
ドクターへの受診につ
いては、減圧症や潜水医学に詳しい医師はほとんどいないためそれぞれの医師の専門領域に関してのみ受診するべ
きであろう。
緊急対応マニュアル
緊急対応マニュアルを備えている地域もあるが多くは未整備である。海域での意識障害者の救助方法と潜水障害発
症時の対応について、わかりやすく記述したマニュアルが必要であろう。応急処置の仕方、搬送方法、搬送経路、受診
先、酸素と AED
について明記されマニュアルを見なくても速やかに行動できるようにしておきたい。
インシデント・アクシデント・レポートの必要性
医療施設では医療事故を予防する目的でインシデント・アクシデント・レポートの作成が始められた。ダイビング事故
でもインシデント・アクシデント・レポートによるニアミスの共有できれば将来起こりえる同様の事故を予防できる可能性
がある。訴訟中、死亡事故の事例公開は困難と考えるが、救助された事例のうち事故者の了解が得られるケースにつ
いては公開可能なものもあるだろう。
潜水医学情報サイト紹介
・ダイバーズクリニック(DAN Japan医学情報サイト)http://diversclinic.jp/
・ダイビング医学http://divingmedicine.jp/
文献
1. 眞野喜洋, 山見信夫, 他 ダイバーのメディカルチェックリストについて.
日本高気圧環境医学会雑誌 38(4):
285-311, 2003
2. Corrado D, et al. Trends in sudden cardiovascular death in
young competitive athletes after implementation
of a preparticipation screening program. JAMA
296: 1593-1601, 2006
3. スポーツ参加当日のセルフチェック10ポイント. 日本臨床スポーツ医学会誌 7(4) : S127,
1999
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